2011年8月21日日曜日

【現地情報】12日の女川町

というページを見つけました。

震災が起きた翌日の3月12日に女川に入った方がツイートされたものをまとめたようです。

今後もこのときの女川を心に留めておきたいので、リンクを貼っておきます。
今やがれきがキレイに片付けられた町の様子やそのときの混乱ぶりが克明に伝わってきます。

http://ckbook.client.jp/onagawa.html


7:3の悲喜交々

はぁ。
やっとおばあちゃん発見伝を書き終えました。


twitterで「よかったとは思うけどなんだか悲しい」とつぶやきましたが、あの日から5ヵ月も経った今見つかって、本当ならうれしいんです。
9月にお母さんと合同のお葬式をする予定だったので、その前に帰ってこれてよかったと思います。


ただ悲しくて悔しいのは、私がおばあちゃんを見つけられなかったこと。


女川町で身元不明のご遺体や遺留品の写真は全部見たのに、気づけませんでした。
お母さんより早い3月に発見されていたなんて。

てっきり車の中だろうと。
そのまま海に流されたんだろうと思っていました。

お母さんらしき人が安置所にいるとわかったときは、何がなんでも会いたいと思っていたのに。
おばあちゃんはそれより前に私たちが見つけてくれるのを待っていたのに、ほんのすぐそばまでやってきていたのに、
私たちは気づかず、、、、、

おばあちゃんが発見された日はなんと私も女川にいました。
あのとき気づいていればこんなにおばあちゃんを待たせることもなかったし、一目会うこともできたのに。

ありがたいことではあるんですが、おばあちゃんの火葬は4月中旬に東京で行われたみたいです。

お骨になっても家族が判明する今の科学技術はすごい。



このおばあちゃんは母方の祖母です。

私が生まれたとき彼女以外の祖父母は他界していたので、私にとってこのおばあちゃんが唯一の“祖父母”でした。
私が女川を出るまでずっと一緒に暮らしてきたので、両親と同じくらい近い存在です。


お母さんは地震が来たとき、真っ先におばあちゃんを車に乗せて避難したそうな。
その途中で津波に巻き込まれたみたいです。

今おばあちゃんのお骨はお母さんがいるお寺に預かってもらっています。

やっと隣に並ぶことができてよかったね。
こんなに遅くなってごめんね。


なんと5ヵ月経って・・・

おひさしぶりです。

卒論や学校の課題に追われる中、ちゃっかりBBQしたり北海道旅行に行ったりと夏らしいこともやってる今日この頃です。



本題。

3月11日以降行方不明だったおばあちゃんが見つかりました!

長くなりそうなので、今回は行方不明の家族を探していらっしゃる方々のために心情は省いて事実を中心に書きます。



8月17日、私たちが提出したDNAに近い人物がいると警察から連絡が入りました。

そこで女川在住の父が慰留品(身に着けていた服など)や見つかったときの写真を見に行き、次の日に叔父夫婦(祖母の長男)と石巻にも確認しに行き、祖母だと判明したそうです。

おばあちゃんは女川で津波に巻き込まれたので女川運動公園の陸上競技場に話を聞きに行っていたのですが、現在、石巻地区の遺体確認に関する情報は、石巻のふれあいパークというところに集まっているそうです。
例えば父によると、女川より多くの写真を見ることができたとか。

母の衣服の写真を初めて見た時は黒っぽいジーンズが泥でカーキに見えるほどでしたが、未だ行方不明の方の遺留品はとてもきれいに洗い、新しく写真を撮り直してあるようです。

女川でもそのような写真はまだ見れるようですが、詳しいことを知りたかったら石巻へ、ということなのでしょうか。



母のときは歯の治療痕が決め手でしたが、数日遅れて母の姉弟や私のDNAが一致したと連絡がきました。

これは写真で母らしき人を確認していたので(実際母だったんですが)、その方に合わせて歯やDNAを調べてもらうことができ、早めに結果がわかったのだと思います。


なんと祖母の体も3月に見つかっていました。
なのに私たちが気づかなかった。

女川だけでも何百ものご遺体とその行方不明者家族のDNAをマッチングするんだから、そりゃ時間がかかるわけですね。

一緒に住んでいたはずの父が今回祖母の写真を見ても、はっきり本人だとはわからなかったそうです。



津波で命を落とした方は女川で約1000人。人口の約1割。
見つかった人は、行方不明者も合わせて539人。(8/11時点)
半分近くの人がまだ発見されていないことになります。

ここまできたらもう祖母は海の中で、二度と帰って来れないんだろうと思っていました。

でも8月になって発見されている方もいるし、うちのケースみたいに見逃してたってこともあります。


献血をしたことがある方でその血液がまだ保存されていれば、その血をDNA鑑定に用いることもできるそうです。
本人のDNAだから合致率は100%です。

母は通院していた歯科が残っていたし、祖母にはDNAを提供できる子ども(私のおじ・おば)が3人もいました。
不幸中の幸いだったと思います。


どうか、できるだけ多くの方がご家族の元に帰れますように・・・


2011年7月10日日曜日

チャリティマッチ Onagawa Cup

そうそう!
7月9日の今日は(もう昨日ですね)、イギリスNorthern League Unitedでチャリティマッチが行われました!
http://onagawasupporters.com/2011/07/08/the-countdown-to-northern-leagues-united-2/

その名もOnagawa Cup
ちゃんとトロフィーもあります。すごい笑。

ここでの収益は全額Birtleyという試合が開催された町と、女川のために使われます。

なんとこの試合、ロンドンにある日本大使館のHPでも宣伝されてるんです。
http://www.uk.emb-japan.go.jp/japanuk150/events/sports/Northern_Leagues_United.html
すごい笑笑。


女川にはコバルトーレ女川という地域密着型のサッカーチームがあるんですが、このチャリティマッチの立役者、Onagawa Supportersはコバルトーレを通じて女川を支援していこう、と立ち上がった団体です。
彼らはすごいです。
彼ら、って両者のことです。

コバルトーレやOnagawa Supportersに関しては書きたいことがいっぱいあるのですが、明日も早いので今日はこのへんで・・・
とりあえずリンク貼っておきます^^


コバルトーレ女川
http://www.cobaltore.com/

Onagawa Supporters
http://onagawasupporters.com/


ではおやすみなさい!

2011年7月9日土曜日

酢飯屋BBQ

おひさしぶりの更新です。

震災から3ヵ月とか
百箇日とか
父の日とか
onagawa.おさかなとか
福島に行ったこととか
外語大の東北支援隊のこととか
新聞に載ったこととか・・・

書きたいことはいっぱいあったんですが、またもやブログページを開かないまま時間だけが過ぎていってしまいました。
やっぱり思ったときにすぐ言葉にしないとだめですね!!



なんて言い訳はおいといて、今日の出来事を書きます。

このブログはtwitterやmixiでは伝えきれない、3.11関連の女川情報や自分のことを発信するために始めたもの。
なので個人的なことを書くのはどうかなとも思ったんですが、せっかく『ラベル』分けができるので、読者の方にはそちらを活用してもらうことにしましょう。。。



本題!

今日は築地川公園で行われた「酢飯屋BBQ」に参加してきました!
今回のテーマはずばり『宮城県』。

これは・・・行くっきゃないですね^^


懐かしの食材から知らない食材までいっぱいあって、
かまぼこ
地酒
津波に流された缶詰(ラベルがはがれているので中身は開けるまで謎!)
油麩の冷やし汁
くりこま高原・漢方豚の冷しゃぶ
金華サバ
塩釜・藻塩ロールケーキ
などなど。

気になることがあると1人でも飛び込んでいくのが自分のいいところだと思っているんですが(笑)、
今日もたくさんの方とお話しながらおいしいものを食べて楽しい時間を過ごせました。

中には石巻にボランティアに行かれた方もいて、自分が知らないようなお話を聞けたり・・・
なにより、地元の食べ物をおいしいと言ってもらえるのはやっぱりうれしい!

中でも一番印象に残ったのはごはんです。
ひさしぶりにおいしいごはん食べました。
さすがお寿司屋の酢飯屋さん、炊き方もお上手!!
(生意気なこと書いてすみません。でもどんなにおいしいお米でも、炊き方の相乗効果でもっともっとおいしくなると思うんです!)


あまったごはんをおにぎりにしてお持ち帰りさせていただいたんですが、冷たくなった今でもおいしいってすごいですよね。

3月に女川に帰ったときも、道中、仙台で友達がおにぎりを持たせてくれたり、女川で泊めてもらったお宅のおばあちゃんが東京に帰る日におにぎりを作ってくれたり。
日本人はいざってときおにぎりなんだなーと改めて思いました。
そしてもらうとなんだかうれしい。
人が握ってくれたものって、やっぱりあったかいんでしょうかね。


話がそれちゃいましたが、今日のごはんもすごくおいしかったです^^

そんな酢飯屋さんのHPはこちら
http://www.sumeshiya.com/

次はお店におじゃましたい!^^



帰り道では創業明治43年というパン屋さんを見つけました。

明治43年って・・・1910年?!
100年も続いているパン屋さん・・・
歴史を感じますね。

あんぱんが有名だそうなので、何種類か買って帰りました^^


創業明治○○年のうなぎ屋さんもあったり・・・
このあたりは老舗が多くて、歩いていると楽しいです。

築地市場もまだ行ったことないから行ってみたいなぁ。



こんな感じで、最近は元気にやってます。

次回は近いうちに更新したいな。

2011年5月15日日曜日

やっぱり母は母である、の巻

今日の日記は上手く書けるかわかりません。
乱文ですみません。





母が見つかりました。

正しく言うと、お母さんじゃないかと思っていた人が母本人だと判明しました。
根拠は歯型で、32本中31本合致したそうです。





昨日はおばあちゃんと、
今日は私と弟が幼いときという設定で夢に出てきてくれていました。

夢の中では幸せなのに、目が覚めて夢だとわかるとむなしいような悲しいような気持ちになって、とりあえず涙が出てきました。

今考えたら、学校も用事もない日に出てきてくれるなんてさすがお母さんです。
学校サボるなよ、遅刻すんなよ、ってことなのかも。

3月くらいの夢では、「今までどこにいたの?」という私の言葉に何も言わず、あいまいにごまかしていました。





お母さんについては今まで何度も記事を書こうと思っていたのですが、上手くまとまらなくて下書きを書いては消すことを繰り返していました。



今まで母と祖母は行方不明、とだけ言っていましたが、実は前回帰省した4/28にお母さんらしき人に対面しました。

他の人はちがうんじゃないかと言っていたけど、あんなにそっくりな人は見たことがありません。
そのときはかなり似ていると思ったのですが、はっきりお母さんだと断定できなかったことが
悔しくて申し訳なくて。
私の中のお母さんにも、対面したその方にも。


でもお母さんである可能性がある以上、絶対に会いたいと思っていたので。
そのとき会っておいて本当によかった。

それから毎日その顔を思い出していました。





お母さんが見つかった4/7は私の誕生日です。

いつもならしないけど、今年はケーキを食べる前に願い事をしました。
帰省時、女川の熊野神社を通りかかった時もお願いしました。


今思えば、
おにぎり大使でオーストラリアに行けたときも、
地元でなく仙台の高校を選んだ時も、
浪人をお願いした時も、
留学を許してもらったときも、

節目節目の大事なとき、母はいつだって私の味方で、私の希望を尊重してくれました。



叶った今だから言うけど、
今回の願い事は「お母さんにもう一度会いたい」です。

さすがうちのお母さんでした。
できすぎ君です。
さすが母です。


神がかり的なものはあんまり信じていないのですが、今回は運命を感じずにはいられません。
いや、母の力なのかな。
この24年間で一番強く願ったことが叶いました。



今は一人でこの気持ちをかみしめたいと思います。



次回のブログにまた詳しく書きます。

2011年5月10日火曜日

25年目

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今回の大津波発生で思い出の品々が流されてしまったので、親戚に写真を分けてもらいました。

そしたら中からこんな物が・・・






お、お、おかん!!
20代!!!

というか今日結婚記念日!!


数えたら今年25年目だったんですね。

今までそんな話聞いたことなかったし、気になったこともなかった。
きっと母の日と結婚記念日がかぶってたこともあったんだろうなー。
もったいないことしてたな。


直接言えなくて残念だけど、父ちゃん、母ちゃん、結婚25年おめでとう。

こんなの言ったのも初めてだなぁ。。。
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2011年5月6日金曜日

お宝発掘!!

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GWももう後半ですね。

このお休みを利用して、東京に住む叔母(母の妹)とうちの弟が女川に帰省したのですが、こんなものを見つけたそうです。


食器や網などの・・・幸楽グッズ!!!
厨房で使ってたレードル!!!


幸楽とは家族で経営しているうちの焼肉屋のことです。


女川の人が知ってるのはこっちの姿かな?



おじいちゃんが創業し、父が2代目でしたが、この間の津波にやられてしまいました。
(ちなみにこのおじいちゃんはお母さん側のおじいちゃんで、うちの父はマスオさんです。)


でも女川の住宅は7割が被害を受けたそうなので、海まで徒歩1分の我が家が流されてしまったのは無理もないことだと思います。

3/11の震災緊急特番で女川は映りませんでしたが、他の町の壊滅具合を目にして、「あー、きっとうちもないな。」とあきらめていました。
(だから気持ちとしては家より家族の安否が早く知りたくて・・・)

裏に自宅もあったのですが、きれいさっぱりありません。

まぁ仕方ない。


女川は、海側は更地のように物がなく、海から離れるにつれて瓦礫が多くなってきます。
がれきの山と化した家々を見た父は「うちは残ってなくてよかったなぁ・・・」と言ってまし
た。

確かに、物が残っているだけ余計に辛そうです。


私は3/11以降、2回帰省しているのですが、見つかったのは焼肉用の網だけ。

持って帰れるような小さいものは何もなかったのですが、今回叔母と弟がこれだけの物を発掘したようで、なんだか嬉しい半分悔しい半分。笑

カーネーションは行方不明の祖母と母にでしょうね。
ずるい。うちもやりたかったww

写真のおみやげを分けてもらったからよしとするか。



ところで、ご近所にある写真屋のお姉ちゃんがこのとき撮ってくれた写真が、地元サッカークラブ「コバルトーレ女川」の応援サイトに載りました!

http://onagawasupporters.com/2011/05/05/inspiration-for-the-future/

inspiration for the future!というタイトルがつけられています^^

実はこの写真をfacebookにもアップしたんですが、友達が「希望にあふれてるね」ってコメントをくれたんです。
実際、家も車も職場も友人も家族をも同時に失った人たちが辛くないはずはないけど、みんながこの2ヵ月下を向いて過ごしてきたわけじゃない。
そんなことをこの1枚から感じてくれたのかなと思ってうれしくなりました。

瓦礫の中(しかも全壊流失した自宅跡!)に立っている絵のはずなんだけど、私もこれは好き。
さすがカメラマンが撮ると違うな^^


* * * * * * * * * * * * * *


さて、私の学校は明日から新学期なので、自分にとっては今日が長い長いお休みの最終日です。
(1/19から春休みだったので約3ヶ月半!!)
早く寝よう。
今学期は遅刻しない・・・!が目標。。。
できるかな^^;

おやすみなさい!
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2011年5月4日水曜日

もうすぐ2ヵ月

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久々の投稿になってしまいました。

twitterやmixiなどをやっていない人にも今回の大震災の情報を伝えたい、ってことで始めたブログですが、震災からあっという間にもうすぐ2ヵ月というところにきています。
ほんとにあっという間でした。
何かあるごとに「このことブログに書きたいなー」と思ってはいたのですが、なにしろ筆不精なもので。。。^^;


( ところで辞書をひくと「震災」は“地震による被害”という意味だそうなので、あんまり使いたくないなーと思っています。津波や原子力の影響の方が大きかったのに、そのニュアンスが含まれていなくてしっくりこないので。
この2つは関東大震災や阪神・淡路大震災と大きくちがうところだと思う。
私の家族やふるさとが一番ダメージを受けたのは津波のせいだし。

まぁ「あ、あれね」と伝わればいいので、たくさんの人にわかってほしいときは東日本大震災、って言いますが。 )


今日はふるさと女川で、復幸市なるものが開催されています。
この名前いいよね!

毎年GWの時期はお祭りで、各地区の子ども会がおみこしを担いでました。
お神輿も津波で流されちゃっただろうけど、こんな形でお祭りを楽しめるのもいいですね。
女川、お祭り大好きだからね。
月一でお祭りあるよね。マリンパルとかで。



これは去年のみなと祭り。(花火の写真はhttp://www.miyagi-kankou.or.jp/wom/o-1861からもらってきました)


これは去年のサンマ収穫祭。
水産会社の人たちが焼いてくれたサンマをタダで配ってますww

だからみんながまたお祭りしよう!って気持ちになれた、っていうのは大変うれしいことです。
4/28に帰省したときはすでに熊野神社に飾りつけがしてありました。


そういえば昨日NHKで放映された音楽番組で女川が3回も映りました!
女川出身の中村雅俊さんが2008年に海岸を歩く様子のVTRが流れたのですが、その美しさにびっくり!!
(主観も入っているのかもしれませんが・・・。)
一瞬一瞬できれいだな、って思うことはあっても、元々がこんなにきれいなものだなんて気づきませんでした。

大事なものは失ってから気づく、って本当にあるんですね。
気づけただけよかったと思うか。

今は思い出がいっぱいありすぎて、女川の写真を見るだけで泣けてきそうです。
でもそんな場所がある、っていうことは幸せだし、そのこと自体が私の宝物だと思います。



・・・改めて見直すとくさくて恥ずかしくなってくるなー。笑
まぁこんなときくらいいいかー。

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2011年4月1日金曜日

'The Worst Situation I've Ever Seen'

なんと3月16日に載せた女川出身の友達の日記がドイツ新聞雑誌のSPIEGELに載りました。
そのブログです↓
http://yukakaneyama.blogspot.com/2011/03/mixi-twitter-id-yukakaneyama-m9.html


私はまったく知らなかったのですが、女川に遊びに来たこともあるドイツ人の友人がこの会社に就職してたみたいです。
このブログを見て、独訳したそうな。

ネットってすごいですねー。
女川を飛び越え、ドイツまで!

ご報告までに抜粋して転載します。
ドイツ語はわからないので、英語のインターナショナル版で・・・

AERAやNHKの取材も受けたそうなので、もしかしたら他で目にしたことがある方もいらっしゃるかもしれませんね。


以下、SPIEGEL International の転載

'The Worst Situation I've Ever Seen'

Klaus Buchmüller is an almost 20-year veteran of the Technische Hilfswerk (THW), Germany's federal emergency relief agency. Buchmüller has brought aid to places such as Afghanistan, the Congo and Iraq, and he arrived in Tokyo as the head of a THW team some 40 hours after the quake had struck. "This is the worst situation I've ever seen," he says, adding that no one was prepared to deal with an earthquake, tsunami and potential nuclear disaster at the same time. "If I would have presented this kind of scenario in a training exercise, people would have called me crazy."
The phone on Buchmüller's desk has been ringing nonstop for days. Some of the callers are also Europeans who are stuck in the catastrophe area and desperate to get out. Transportation has been limited, there are fuel shortages, and the streets are often blocked by mountains of debris. There has yet to be a complete evacuation of the emergency areas.
In these places, many are facing shortages of crucial necessities: food, water and warmth. Though famous for their toughness, even the Japanese are starting to show signs of stress. Mako Matsukawa survived the destruction of her hometown of Onagawa, a small coastal city in the hardest-hit Miyagi prefecture. The 19-year-old university student had taken refuge in a middle-school gymnasium, whose windows had been shattered by the earthquake.
Matsukawa says that it took two days before food arrived and that, even then, she only got half a bowl of soup. Later, she and her father descended the hill into the tsunami-destroyed city, which used to be home to almost 10,000 people. Now, the city was just pile after pile of debris. When night came, the survivors lit fires in ditches and roasted fish washed in by the tsunami.


Food Lines

Matsukawa believes that people here have reached the limit of their patience. "Even though many people tried to ensure that children and the elderly were the first to eat, in practice it was first come, first served. In the end I was lucky enough to get some food. But there were many people who got nothing."
After a while Matsukawa couldn't stand the city any longer. The streets stank of fish, and the people reeked of smoke. There were only makeshift toilets and crowds of people lined up in front of them.
In the end, she and her family made their way to Sendai, the hard-hit city with a million inhabitants. There, they finally found enough to eat. "In the evening, we ate warm rice," she says, "and I was filled with joy."
But food supplies are also tight in Sendai and the stores' shelves are empty. With little external help coming in, Mayor Emiko Okuyama could only appeal to the public spirit of her city's inhabitants in an address. "Until we reach the point where there is enough food and shelter, I ask you to share provisions a little bit more," she said.


原文はこちらから。
http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,752177,00.html

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2011年3月22日火曜日

被災後の女川: youtube

女川町の様子がyoutubeでアップされていた。
Someone uploaded the video on youtube. It's my hometown, Onagawa.



津波が来た翌日の写真を見ていたからか、この動画に出てくる女川は片付いているように感じる。しかしそれでもすさまじい。

戦争の後みたい。
・・・体験したことはないけれど。

これを人の手で行うのが戦争なら、絶対におこしちゃいけないと思う。
避けられることなのに・・・辛すぎる。

天災には抗えない。今回は無念ではあるが仕方ない。
そう思わなければやりきれない。




明日東京を発つ。
避難所にいる父に会うため、母と祖母を探すため、生まれ故郷に帰るため。

ここがきれいに片付けられる前にこの目に焼き付けておきたい。

2011年3月19日土曜日

3月11日

先週の今日

すっかり春休みボケして昼過ぎに起きたら、母から「ケィちゃんからPostcard届いたよ」とメールが入っていた。
友人がマレーシアから送ってくれたのが届いたんだ。

上京してきてから一番の揺れを感じた。
すぐにガスの元栓を締め、ドアを開けて食器棚が倒れないように押さえる。

テレビをつける。
震源地が三陸沖。
震度7。

こんな数値見たことない。
今日が締め切りのESを銀座に提出しに行く予定だったけど、もうどうでもよかった。
これが中学生ぐらいの時から「30年以内に発生する確率99%」言われていた宮城県沖地震なのだろうか?


お母さんに電話しても出ない。
地震のときはいつも回線が込み合うから、「落ち着いたら電話して」とだけメールを送っておいた。


予想される津波の高さは3mから10mへと変わる。

10m?
大げさだと思った。
私が今まで体験した津波は、大抵、海水がじわじわと家にしみこんでくる感じだ。
潮の満ち干きによって床上浸水だったり床下浸水だったり。

いくら今回の地震がすごくてもたいしたことないんだろう。



テレビに名取が映っていた。
海水は名取川を逆流し、川に入り損ねた水は田畑を浸食していく。
仙台空港は半水没。
岩手の沿岸部の町では波が岩盤を叩きつけ、ものすごいスピードで押し寄せてくる。

なんかやばいぞ、と思い始める。

家が、車が、船が、濁流に流れていく。
映画のCGのようで現実味がない。

なんで震源地に一番近い女川がテレビに出ないんだといらいらした。

母は電話に出ない。





夜9時ごろ。

「宮城県女川町壊滅的」のテロップ。





全部なくなったと思った。

壊滅的なんて言葉、これまでの人生で何回使ったんだろう。
ひどく日常からかけ離れた言葉だった。

テレビを流しながら、いいから早く女川を映せと一晩中思っていた。


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2011年3月16日水曜日

浦宿・門前の様子

小・中で同じ学校に通った友人が、自ら「ブログに載せてほしい」と原稿を書いてくれました。

比較的被害が少なかったと言われる門前・浦宿の情報です。
友人は現在進学のため県外に住んでいますが、地震発生当時の様子をお母さんに聞いてまとめたそうです。

私の友人の中には、浦宿の工場で働いていた兄が無事だった、津波の後は比較的被害の少ない浦宿の親戚の家にいる、と実際に家族と連絡を取れた人もいます。
twitterで地震発生後もセブンイレブンは営業していたという情報も流れていました。

転載します。

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うちは、女川町浦宿門前の女川高校むかえcocoストアの向かって左の坂を少しあがったところに位置しています。国道からかぞえて坂の下から二段目の高さです。私の母は、地震当時家の二階にいました。

地震が収まると家のしたの国道には車で避難してきた人たちの渋滞。そして歩いて避難している人たちがいたそうです。うちは女川湾から歩いておおよそ歩いて30分程度の所に位置しているので普段であれば津波の心配はありません。しかし母はその国道にいた人たちが流されていくのを見たそうです。車から急いで逃げた人たちは無事だったそうですが。

我が家のお隣、坂のすぐそばの家までがれきと水はやってきたそうです。坂の一番上(借家が並ぶあたり)まではこなかったようです。
レストランすえひろ前の坂からもがれきはやってきたようで、墓地の手前少しあたりまできたそうです。
おそらく国道は浦宿駅方面まで水浸でしょう。浦宿駅は水没?とういう話も。(この辺は詳しくありません)
女川第一小学校、成幸団地などは無事だそうです。

ご近所の状況は国道の面した家は一階が浸水。倉庫など作りが甘い建物は流されたかもしれません。また、地震でひびが入った家も。しかし、門前地区のある程度上の方に位置していた家にいてなくなった方はいないようです。

地震の夜は、照源寺でみんなで過ごし、食事もとれたようです。
照源寺には飲料用のわき水があるため水には不自由していないそうです。
その後水は引き、家に帰ることができたようです。
また、田舎故にガスがプロパンのボンベが各家庭にあるため、地震でボンベが壊れていない家はまだガスも使えているようでした。また、第一小学校が避難所になっている模様。後はあくまで噂ですが3小の子供たちも一小に避難してきているとの事。

水が引き歩けるようになったので母が第四保育所周辺までいってみたところ、あの周辺の家も比較的無事らしいです。なので浦宿地区は被害は少ないのではないのでしょうか?この方面から総合体育館にいる親戚や知り合いのところに物資を届けているようです。

自衛隊がきたのは二日目以降。母はようやく石巻の状況を自衛隊の方から聞けたそうです。道も彼らががれきをどかしていったので通行可能状態。
その後母は車で、稲井を通り石巻へ。女川->沢田->稲井->新しくできたトンネル->蛇田方面のルートは生きているのようです。そのとき見たその辺りの家も残っていたそうです。

私の母の主観も多いですが、おそらく浦宿近辺の情報はテレビなどで報道されませんから、この情報が誰かの役に立てばいいかとおもって書かせていただきました。

我が家は非常に幸運でした。家族も生きています。家もなんとか残っています。

しかし、なくなられた方や行方不明の方はまだたくさんいらっしゃいます。私もまだ友人と連絡がとれていません。ニュースの映像を見ると胸が張り裂けそうです。涙が出てきます。同級生の家は残っていないでしょう。女川町は大学進学で家をでるまで過ごした大事な故郷です。一人でも多くの方が助かる事を祈っています。


【転載歓迎】 被災した女川町の様子

これが私が多くの人に発信したい、ブログを作ろうと思ったきっかけになった出来事です。
mixiでも同じ日記を書きました。


安全なところにいる人たちを必要以上に怖がらせたり、楽しい気持ちを自粛しろって言いたいわけじゃありません。
憐れんでほしいわけでもない。
ただ知っておいてほしい。

転載も歓迎します。
今回のことに関してはtwitterでもどんどんつぶやいてるので、気にしてくださる方はフォローしてください。
ID: SORA_yuka_

また、mixiをやっていなくて下の体験記を書いてくれた私の友人に連絡を取りたい方はコメントお願いします。

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以前にないペースでつぶやきまくってるので皆さんご存知かと思いますが、今回の東北関東大震災(でいいの?名称変わりすぎ)で実家の宮城県女川町が被災しました。

今回のM9.0の地震震源地からすぐそばにある女川では大津波が発生し、町はほぼ壊滅状態です。
写真はヘリから撮影された女川の様子。(朝日新聞3月12日号外より)

そんな中、被災後の女川から仙台へ向かった子が、そのときのことを日記を書いてくれたので、許可を得た上で転載します。
みなさんにぜひ読んでほしい。

私の現状に関してはまた後ほど。


以下コピペ

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1689433584&owner_id=15595334&comment_count=91


【3月11日、女川町】

私は女川町から
石巻市、涌谷町、美里町を通って仙台市まで避難してきました。

私一人の情報なので量は少ないですが、全て報告したいと思います。

まず先に・・・
女川は、石浜、宮ヶ崎、大原、清水、鷲神は全壊と考えていいと思います。
旭ヶ丘は津波の被害はありません。


私は女川で地震にあいました。
地震後すぐに警報がなり、慌てて車で第一中学校まで祖母と避難しました。
その時点での大津波警報では、津波は3mということでした。
警報から15~20分後、海面が上昇し始め、海岸から徐々に水が広がっていき、最終的には鉄砲水のような勢いで津波が押し寄せてきました。
バキバキという音と爆発音がなり続け、海水が女川町全体で渦を巻いていました。家も駅も生涯教育センターも、全部水の中で、姿もみえなくて、幼稚園があったはずの方向には海岸から流されてきた船があって、家がそのまま水に流されて浮いてた。みんな渦の中。津波は中学校の海側の坂の半分くらいまできていて、避難してそれを見つめていた人たちの肩には雪が積もってきていました。

ラジオなどでは10m程度などといっていますが、
実際にきた津波は30mちかくあったのではないかと思います。

津波は清水の奥まで届いており、本当に見える場所すべてがのみ込まれていました。高台にある町立病院の1階まで水が押し寄せて、駐車場にあった車は全て巻き込まれていました。
逃げ遅れた方も多かったと思います。家の2階や、奥のほうに住んでいた方などは、安心しきっていたかもしれません。
全てがのみこまれていました。

津波が来ている最中も強い余震が続き、中学校のグラウンドも地割れがおき始めたため、総合体育館まで移動しました。
初めは体育館も窓ガラスが割れるなどの被害があったため閉鎖されており、小学生などは芝生の坂の上にテントをはり避難していました。
雪が強くなっていたので私は車の中で暖をとっていましたが、ガソリンがなくなりかけていたので体育館のほうへ向かいました。
私が向かったときにはすでに開放されており、入り口付近では掃除用具などを入れるロッカーを横に倒しそのなかで体育館にあったプラカードや椅子などを燃やし、火をおこしていました。
ケータイは圏外、電気もガスも水道もとまっていました。
自家発電で多少の明かりはありましたが、薄暗く、窓ガラスも割れているため冷たい風が室内にも吹いて、とても眠れる状況ではなく、毛布を持ち込んでいる人もいれば、私たちのように体ひとつで逃げてきた人たちも大勢いて、寒さでほとんどの人が眠れずにそれぞれが寄り添って被害状況の報告をし合っていました。

両親を探す人。
津波にのみ込まれ、泣く泣く親の手を放した女性。
妻が目の前で流されてしまった男性。
子供を失った人。
人が車ごとのみ込まれていくのを目の前でみてしまった人。
津波がひいた後、家族の死体を見つけた人。

様々な方がいました。
自分のことで精一杯で、目の前の「助けて」の声にも、こたえられないんです。

私も地震直後のまだ電波が届いていたときに母と弟とは連絡が取れていましたが、父とは連絡が取れず不安でたまりませんでした。
1日目は何も食べることが出来ませんでした。
一晩中余震が続いていました。

2日目、早朝に「玄関にお父さんが来ている!」と言われ、駆けつけると顔中傷だらけの父が立っていました。涙があふれました。
津波に遭遇しながらもなんとか逃げ切って隣の小学校で一夜を過ごし、私と祖母のために山を越えて体育館まで来てくれたそうです。

ほかに何人も他の避難所から体育館に次々と移動してきて、体育館は人があふれていました。

昼ごろに初めての配給があり、お椀に半分のスープを食べることが出来ました。具はほとんどありません。

昼間、父と津波が引いた後の町を見に行きました。
更地になっていました。そこら中瓦礫の山です。
自宅も会社もなくなっていました。というか、土台だけです。


アルバムに写真がアップしてあるので、見ていただければと思います。

夜になり、道の側溝の網を焚き火の上にかけて、そこで拾ってきた魚を焼いていました。
子供や老人が優先されていましたが、ほとんど早い者勝ちで、私は最後に運よく食べることが出来ましたが、食べられなかった方もいたと思います。
地震があってから、まともな食料をほとんど口にしていなかったので、本当に夢中で食いつきました。本当に涙が出そうでした。

避難所は悲惨でした。
町の生臭さと、人の息、煤のにおい。
もちろんトイレも仮設のもので、そのちかくで人がひしめき合っているんです。夜は足をのばすことも、寝返りをうつこともできません。家族と連絡が取れていない人がほとんどで、食べ物もなく、みんな苛立って。

女川を一通り歩いてきましたが、本当に酷い。
被害を受けたところは、もう跡形もありません。

その後、私と父はケータイの電波が届く地域まで避難することができ、そこで母たちと連絡を取り合って、祖母も迎えにいき家族5人全員で再会することが出来ました。

今は家族全員、仙台に避難しています。
居場所がある。毛布がある。寝るところがある。
これだけのことがこんなにも幸せなことなんだと実感しています。

仙台に避難してきた日、朝から何も食べておらず、
夜に暖かいお米を食べて、心から幸せだと思えました。

水が飲めるし、お米がたべられる、本当に幸せなことなんです。

しかし、仙台でさえ食べ物が不足しており、街中のひとが食料や水を求めてスーパーやコンビニに列をつくっています。
逃げようにも、ガソリンもありません。
流通も止まっているため、在庫がいつまでもつかも分かりません。

朝から食料集めで走り回っています。
仙台ではまだ電気も復旧せず、断水が続いている地域もありますが、
女川より、余程ましです。
困っているのは同じだし、同じように苦しんでいるのはあたりまえです。
被害の大きさで図るのは嫌だけど、だけどもっと酷い地域がある。

女川だけではありません。
もっと酷い地域があります。

人が沢山死んでいます。

飲み物も、食べ物もなくて、暖をとる手段もない。
助けの届かない孤立した地域です。

家族が誰一人欠けなかったこと、
私たちは本当に運がよかったんだと思います。奇跡です。
いま、暖かい寝場所があります。
食べ物も少量だけど何とか確保できています。

励ましのメールや電話が、本当に嬉しい。
本当に支えになっています。ありがとう。

みんなありがとう、心配してくれて。
もう言葉にできません。


宮城県民、とくに女川町の情報は私が知っている限りのことを伝えて生きたいと思います。
女川はいま、瓦礫の撤去作業も進められていて、女川の外に出ている人もいます。しかし、ほとんどの人はまだ体育館で生活していると思います。

メッセージください。
女川にいる家族のことでも親戚のことでも、知っている情報は全て差し上げます。


被災地の方、頑張りましょう。
いま、私たちには何もありません。
これからどうやって生活していけばいいかも分かりません。
すぐに助かる保障もありません。

先のことは何も見えないけれど、いま生きていることに感謝です。
そう考えて、いまは踏ん張るしかないんです。



家族との連絡が取れない方

被災地では、少なくとも3ヶ月近くは連絡が取れないと思います。
だけど、絶対に無事な人もいます。
連絡がつかなくても、絶対にあきらめないでください。





コピペ終わり。

ちなみにこの子が避難所で父を見かけたと連絡してくれ、行き場のない気持ちに光が差しました。

ブログを始めたきっかけ

私が生まれてから20年を過ごした宮城県女川町が、2011年3月11日にの大地震に端を発する東日本大震災で被災しました。

現在神奈川県に住んでいる私は無事でしたが、地震発生後から女川の家族とまったく連絡が取れず、テレビやmixi、twitterで情報を集めています。

このブログはそれらでは発信しきれない情報を1つにまとめたい、多くの人にも知ってもらいたい、という思いから始めました。

取り急ぎここまで。