2011年3月22日火曜日

被災後の女川: youtube

女川町の様子がyoutubeでアップされていた。
Someone uploaded the video on youtube. It's my hometown, Onagawa.



津波が来た翌日の写真を見ていたからか、この動画に出てくる女川は片付いているように感じる。しかしそれでもすさまじい。

戦争の後みたい。
・・・体験したことはないけれど。

これを人の手で行うのが戦争なら、絶対におこしちゃいけないと思う。
避けられることなのに・・・辛すぎる。

天災には抗えない。今回は無念ではあるが仕方ない。
そう思わなければやりきれない。




明日東京を発つ。
避難所にいる父に会うため、母と祖母を探すため、生まれ故郷に帰るため。

ここがきれいに片付けられる前にこの目に焼き付けておきたい。

2011年3月19日土曜日

3月11日

先週の今日

すっかり春休みボケして昼過ぎに起きたら、母から「ケィちゃんからPostcard届いたよ」とメールが入っていた。
友人がマレーシアから送ってくれたのが届いたんだ。

上京してきてから一番の揺れを感じた。
すぐにガスの元栓を締め、ドアを開けて食器棚が倒れないように押さえる。

テレビをつける。
震源地が三陸沖。
震度7。

こんな数値見たことない。
今日が締め切りのESを銀座に提出しに行く予定だったけど、もうどうでもよかった。
これが中学生ぐらいの時から「30年以内に発生する確率99%」言われていた宮城県沖地震なのだろうか?


お母さんに電話しても出ない。
地震のときはいつも回線が込み合うから、「落ち着いたら電話して」とだけメールを送っておいた。


予想される津波の高さは3mから10mへと変わる。

10m?
大げさだと思った。
私が今まで体験した津波は、大抵、海水がじわじわと家にしみこんでくる感じだ。
潮の満ち干きによって床上浸水だったり床下浸水だったり。

いくら今回の地震がすごくてもたいしたことないんだろう。



テレビに名取が映っていた。
海水は名取川を逆流し、川に入り損ねた水は田畑を浸食していく。
仙台空港は半水没。
岩手の沿岸部の町では波が岩盤を叩きつけ、ものすごいスピードで押し寄せてくる。

なんかやばいぞ、と思い始める。

家が、車が、船が、濁流に流れていく。
映画のCGのようで現実味がない。

なんで震源地に一番近い女川がテレビに出ないんだといらいらした。

母は電話に出ない。





夜9時ごろ。

「宮城県女川町壊滅的」のテロップ。





全部なくなったと思った。

壊滅的なんて言葉、これまでの人生で何回使ったんだろう。
ひどく日常からかけ離れた言葉だった。

テレビを流しながら、いいから早く女川を映せと一晩中思っていた。


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2011年3月16日水曜日

浦宿・門前の様子

小・中で同じ学校に通った友人が、自ら「ブログに載せてほしい」と原稿を書いてくれました。

比較的被害が少なかったと言われる門前・浦宿の情報です。
友人は現在進学のため県外に住んでいますが、地震発生当時の様子をお母さんに聞いてまとめたそうです。

私の友人の中には、浦宿の工場で働いていた兄が無事だった、津波の後は比較的被害の少ない浦宿の親戚の家にいる、と実際に家族と連絡を取れた人もいます。
twitterで地震発生後もセブンイレブンは営業していたという情報も流れていました。

転載します。

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うちは、女川町浦宿門前の女川高校むかえcocoストアの向かって左の坂を少しあがったところに位置しています。国道からかぞえて坂の下から二段目の高さです。私の母は、地震当時家の二階にいました。

地震が収まると家のしたの国道には車で避難してきた人たちの渋滞。そして歩いて避難している人たちがいたそうです。うちは女川湾から歩いておおよそ歩いて30分程度の所に位置しているので普段であれば津波の心配はありません。しかし母はその国道にいた人たちが流されていくのを見たそうです。車から急いで逃げた人たちは無事だったそうですが。

我が家のお隣、坂のすぐそばの家までがれきと水はやってきたそうです。坂の一番上(借家が並ぶあたり)まではこなかったようです。
レストランすえひろ前の坂からもがれきはやってきたようで、墓地の手前少しあたりまできたそうです。
おそらく国道は浦宿駅方面まで水浸でしょう。浦宿駅は水没?とういう話も。(この辺は詳しくありません)
女川第一小学校、成幸団地などは無事だそうです。

ご近所の状況は国道の面した家は一階が浸水。倉庫など作りが甘い建物は流されたかもしれません。また、地震でひびが入った家も。しかし、門前地区のある程度上の方に位置していた家にいてなくなった方はいないようです。

地震の夜は、照源寺でみんなで過ごし、食事もとれたようです。
照源寺には飲料用のわき水があるため水には不自由していないそうです。
その後水は引き、家に帰ることができたようです。
また、田舎故にガスがプロパンのボンベが各家庭にあるため、地震でボンベが壊れていない家はまだガスも使えているようでした。また、第一小学校が避難所になっている模様。後はあくまで噂ですが3小の子供たちも一小に避難してきているとの事。

水が引き歩けるようになったので母が第四保育所周辺までいってみたところ、あの周辺の家も比較的無事らしいです。なので浦宿地区は被害は少ないのではないのでしょうか?この方面から総合体育館にいる親戚や知り合いのところに物資を届けているようです。

自衛隊がきたのは二日目以降。母はようやく石巻の状況を自衛隊の方から聞けたそうです。道も彼らががれきをどかしていったので通行可能状態。
その後母は車で、稲井を通り石巻へ。女川->沢田->稲井->新しくできたトンネル->蛇田方面のルートは生きているのようです。そのとき見たその辺りの家も残っていたそうです。

私の母の主観も多いですが、おそらく浦宿近辺の情報はテレビなどで報道されませんから、この情報が誰かの役に立てばいいかとおもって書かせていただきました。

我が家は非常に幸運でした。家族も生きています。家もなんとか残っています。

しかし、なくなられた方や行方不明の方はまだたくさんいらっしゃいます。私もまだ友人と連絡がとれていません。ニュースの映像を見ると胸が張り裂けそうです。涙が出てきます。同級生の家は残っていないでしょう。女川町は大学進学で家をでるまで過ごした大事な故郷です。一人でも多くの方が助かる事を祈っています。


【転載歓迎】 被災した女川町の様子

これが私が多くの人に発信したい、ブログを作ろうと思ったきっかけになった出来事です。
mixiでも同じ日記を書きました。


安全なところにいる人たちを必要以上に怖がらせたり、楽しい気持ちを自粛しろって言いたいわけじゃありません。
憐れんでほしいわけでもない。
ただ知っておいてほしい。

転載も歓迎します。
今回のことに関してはtwitterでもどんどんつぶやいてるので、気にしてくださる方はフォローしてください。
ID: SORA_yuka_

また、mixiをやっていなくて下の体験記を書いてくれた私の友人に連絡を取りたい方はコメントお願いします。

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以前にないペースでつぶやきまくってるので皆さんご存知かと思いますが、今回の東北関東大震災(でいいの?名称変わりすぎ)で実家の宮城県女川町が被災しました。

今回のM9.0の地震震源地からすぐそばにある女川では大津波が発生し、町はほぼ壊滅状態です。
写真はヘリから撮影された女川の様子。(朝日新聞3月12日号外より)

そんな中、被災後の女川から仙台へ向かった子が、そのときのことを日記を書いてくれたので、許可を得た上で転載します。
みなさんにぜひ読んでほしい。

私の現状に関してはまた後ほど。


以下コピペ

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1689433584&owner_id=15595334&comment_count=91


【3月11日、女川町】

私は女川町から
石巻市、涌谷町、美里町を通って仙台市まで避難してきました。

私一人の情報なので量は少ないですが、全て報告したいと思います。

まず先に・・・
女川は、石浜、宮ヶ崎、大原、清水、鷲神は全壊と考えていいと思います。
旭ヶ丘は津波の被害はありません。


私は女川で地震にあいました。
地震後すぐに警報がなり、慌てて車で第一中学校まで祖母と避難しました。
その時点での大津波警報では、津波は3mということでした。
警報から15~20分後、海面が上昇し始め、海岸から徐々に水が広がっていき、最終的には鉄砲水のような勢いで津波が押し寄せてきました。
バキバキという音と爆発音がなり続け、海水が女川町全体で渦を巻いていました。家も駅も生涯教育センターも、全部水の中で、姿もみえなくて、幼稚園があったはずの方向には海岸から流されてきた船があって、家がそのまま水に流されて浮いてた。みんな渦の中。津波は中学校の海側の坂の半分くらいまできていて、避難してそれを見つめていた人たちの肩には雪が積もってきていました。

ラジオなどでは10m程度などといっていますが、
実際にきた津波は30mちかくあったのではないかと思います。

津波は清水の奥まで届いており、本当に見える場所すべてがのみ込まれていました。高台にある町立病院の1階まで水が押し寄せて、駐車場にあった車は全て巻き込まれていました。
逃げ遅れた方も多かったと思います。家の2階や、奥のほうに住んでいた方などは、安心しきっていたかもしれません。
全てがのみこまれていました。

津波が来ている最中も強い余震が続き、中学校のグラウンドも地割れがおき始めたため、総合体育館まで移動しました。
初めは体育館も窓ガラスが割れるなどの被害があったため閉鎖されており、小学生などは芝生の坂の上にテントをはり避難していました。
雪が強くなっていたので私は車の中で暖をとっていましたが、ガソリンがなくなりかけていたので体育館のほうへ向かいました。
私が向かったときにはすでに開放されており、入り口付近では掃除用具などを入れるロッカーを横に倒しそのなかで体育館にあったプラカードや椅子などを燃やし、火をおこしていました。
ケータイは圏外、電気もガスも水道もとまっていました。
自家発電で多少の明かりはありましたが、薄暗く、窓ガラスも割れているため冷たい風が室内にも吹いて、とても眠れる状況ではなく、毛布を持ち込んでいる人もいれば、私たちのように体ひとつで逃げてきた人たちも大勢いて、寒さでほとんどの人が眠れずにそれぞれが寄り添って被害状況の報告をし合っていました。

両親を探す人。
津波にのみ込まれ、泣く泣く親の手を放した女性。
妻が目の前で流されてしまった男性。
子供を失った人。
人が車ごとのみ込まれていくのを目の前でみてしまった人。
津波がひいた後、家族の死体を見つけた人。

様々な方がいました。
自分のことで精一杯で、目の前の「助けて」の声にも、こたえられないんです。

私も地震直後のまだ電波が届いていたときに母と弟とは連絡が取れていましたが、父とは連絡が取れず不安でたまりませんでした。
1日目は何も食べることが出来ませんでした。
一晩中余震が続いていました。

2日目、早朝に「玄関にお父さんが来ている!」と言われ、駆けつけると顔中傷だらけの父が立っていました。涙があふれました。
津波に遭遇しながらもなんとか逃げ切って隣の小学校で一夜を過ごし、私と祖母のために山を越えて体育館まで来てくれたそうです。

ほかに何人も他の避難所から体育館に次々と移動してきて、体育館は人があふれていました。

昼ごろに初めての配給があり、お椀に半分のスープを食べることが出来ました。具はほとんどありません。

昼間、父と津波が引いた後の町を見に行きました。
更地になっていました。そこら中瓦礫の山です。
自宅も会社もなくなっていました。というか、土台だけです。


アルバムに写真がアップしてあるので、見ていただければと思います。

夜になり、道の側溝の網を焚き火の上にかけて、そこで拾ってきた魚を焼いていました。
子供や老人が優先されていましたが、ほとんど早い者勝ちで、私は最後に運よく食べることが出来ましたが、食べられなかった方もいたと思います。
地震があってから、まともな食料をほとんど口にしていなかったので、本当に夢中で食いつきました。本当に涙が出そうでした。

避難所は悲惨でした。
町の生臭さと、人の息、煤のにおい。
もちろんトイレも仮設のもので、そのちかくで人がひしめき合っているんです。夜は足をのばすことも、寝返りをうつこともできません。家族と連絡が取れていない人がほとんどで、食べ物もなく、みんな苛立って。

女川を一通り歩いてきましたが、本当に酷い。
被害を受けたところは、もう跡形もありません。

その後、私と父はケータイの電波が届く地域まで避難することができ、そこで母たちと連絡を取り合って、祖母も迎えにいき家族5人全員で再会することが出来ました。

今は家族全員、仙台に避難しています。
居場所がある。毛布がある。寝るところがある。
これだけのことがこんなにも幸せなことなんだと実感しています。

仙台に避難してきた日、朝から何も食べておらず、
夜に暖かいお米を食べて、心から幸せだと思えました。

水が飲めるし、お米がたべられる、本当に幸せなことなんです。

しかし、仙台でさえ食べ物が不足しており、街中のひとが食料や水を求めてスーパーやコンビニに列をつくっています。
逃げようにも、ガソリンもありません。
流通も止まっているため、在庫がいつまでもつかも分かりません。

朝から食料集めで走り回っています。
仙台ではまだ電気も復旧せず、断水が続いている地域もありますが、
女川より、余程ましです。
困っているのは同じだし、同じように苦しんでいるのはあたりまえです。
被害の大きさで図るのは嫌だけど、だけどもっと酷い地域がある。

女川だけではありません。
もっと酷い地域があります。

人が沢山死んでいます。

飲み物も、食べ物もなくて、暖をとる手段もない。
助けの届かない孤立した地域です。

家族が誰一人欠けなかったこと、
私たちは本当に運がよかったんだと思います。奇跡です。
いま、暖かい寝場所があります。
食べ物も少量だけど何とか確保できています。

励ましのメールや電話が、本当に嬉しい。
本当に支えになっています。ありがとう。

みんなありがとう、心配してくれて。
もう言葉にできません。


宮城県民、とくに女川町の情報は私が知っている限りのことを伝えて生きたいと思います。
女川はいま、瓦礫の撤去作業も進められていて、女川の外に出ている人もいます。しかし、ほとんどの人はまだ体育館で生活していると思います。

メッセージください。
女川にいる家族のことでも親戚のことでも、知っている情報は全て差し上げます。


被災地の方、頑張りましょう。
いま、私たちには何もありません。
これからどうやって生活していけばいいかも分かりません。
すぐに助かる保障もありません。

先のことは何も見えないけれど、いま生きていることに感謝です。
そう考えて、いまは踏ん張るしかないんです。



家族との連絡が取れない方

被災地では、少なくとも3ヶ月近くは連絡が取れないと思います。
だけど、絶対に無事な人もいます。
連絡がつかなくても、絶対にあきらめないでください。





コピペ終わり。

ちなみにこの子が避難所で父を見かけたと連絡してくれ、行き場のない気持ちに光が差しました。

ブログを始めたきっかけ

私が生まれてから20年を過ごした宮城県女川町が、2011年3月11日にの大地震に端を発する東日本大震災で被災しました。

現在神奈川県に住んでいる私は無事でしたが、地震発生後から女川の家族とまったく連絡が取れず、テレビやmixi、twitterで情報を集めています。

このブログはそれらでは発信しきれない情報を1つにまとめたい、多くの人にも知ってもらいたい、という思いから始めました。

取り急ぎここまで。