2012年1月27日金曜日

ダボス会議での渡辺謙さんのスピーチ


おひさしぶりです。
更新にかなり間が空いてしまいました。

今日はすてきな記事を見つけたので紹介したいと思います。
東日本大震災後多くの方に支えられてここまできましたが、その中でも渡辺謙さんは最も真摯に被災地と向き合ってくれた方のお一人だと思います。

以下、こちらより全文転載。
東京新聞

スイスで25日に開会した世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」で、俳優の渡辺謙さんがスピーチに立ち、各国から寄せられた東日本大震災の被災地支援への深い感謝と立ち上がる決意を語るとともに、原子力から再生エネルギーへの転換を訴えた。
渡辺さんは、震災発生直後から、インターネットにメッセージなどで被災者を応援するサイト「kizuna311」を立ち上げ、現地を幾度も訪れるなど、支援活動を積極的に続けている。
スピーチは現地時間25日午前(日本時間同日午後)に行われた。渡辺さんは「私たちの決意として、世界に届いてほしいと思います」と話している。
スピーチ全文は次の通り。
初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。
まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。
私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍たち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶことで、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。
その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。
しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。
それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。
私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あまり、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊かさは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。
そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしまいました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。しかし人が人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だったのです。
「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。困っている人がいれば助ける。おなかがすいている人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったのです。
いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。
国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。
私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。

2011年8月21日日曜日

【現地情報】12日の女川町

というページを見つけました。

震災が起きた翌日の3月12日に女川に入った方がツイートされたものをまとめたようです。

今後もこのときの女川を心に留めておきたいので、リンクを貼っておきます。
今やがれきがキレイに片付けられた町の様子やそのときの混乱ぶりが克明に伝わってきます。

http://ckbook.client.jp/onagawa.html


7:3の悲喜交々

はぁ。
やっとおばあちゃん発見伝を書き終えました。


twitterで「よかったとは思うけどなんだか悲しい」とつぶやきましたが、あの日から5ヵ月も経った今見つかって、本当ならうれしいんです。
9月にお母さんと合同のお葬式をする予定だったので、その前に帰ってこれてよかったと思います。


ただ悲しくて悔しいのは、私がおばあちゃんを見つけられなかったこと。


女川町で身元不明のご遺体や遺留品の写真は全部見たのに、気づけませんでした。
お母さんより早い3月に発見されていたなんて。

てっきり車の中だろうと。
そのまま海に流されたんだろうと思っていました。

お母さんらしき人が安置所にいるとわかったときは、何がなんでも会いたいと思っていたのに。
おばあちゃんはそれより前に私たちが見つけてくれるのを待っていたのに、ほんのすぐそばまでやってきていたのに、
私たちは気づかず、、、、、

おばあちゃんが発見された日はなんと私も女川にいました。
あのとき気づいていればこんなにおばあちゃんを待たせることもなかったし、一目会うこともできたのに。

ありがたいことではあるんですが、おばあちゃんの火葬は4月中旬に東京で行われたみたいです。

お骨になっても家族が判明する今の科学技術はすごい。



このおばあちゃんは母方の祖母です。

私が生まれたとき彼女以外の祖父母は他界していたので、私にとってこのおばあちゃんが唯一の“祖父母”でした。
私が女川を出るまでずっと一緒に暮らしてきたので、両親と同じくらい近い存在です。


お母さんは地震が来たとき、真っ先におばあちゃんを車に乗せて避難したそうな。
その途中で津波に巻き込まれたみたいです。

今おばあちゃんのお骨はお母さんがいるお寺に預かってもらっています。

やっと隣に並ぶことができてよかったね。
こんなに遅くなってごめんね。


なんと5ヵ月経って・・・

おひさしぶりです。

卒論や学校の課題に追われる中、ちゃっかりBBQしたり北海道旅行に行ったりと夏らしいこともやってる今日この頃です。



本題。

3月11日以降行方不明だったおばあちゃんが見つかりました!

長くなりそうなので、今回は行方不明の家族を探していらっしゃる方々のために心情は省いて事実を中心に書きます。



8月17日、私たちが提出したDNAに近い人物がいると警察から連絡が入りました。

そこで女川在住の父が慰留品(身に着けていた服など)や見つかったときの写真を見に行き、次の日に叔父夫婦(祖母の長男)と石巻にも確認しに行き、祖母だと判明したそうです。

おばあちゃんは女川で津波に巻き込まれたので女川運動公園の陸上競技場に話を聞きに行っていたのですが、現在、石巻地区の遺体確認に関する情報は、石巻のふれあいパークというところに集まっているそうです。
例えば父によると、女川より多くの写真を見ることができたとか。

母の衣服の写真を初めて見た時は黒っぽいジーンズが泥でカーキに見えるほどでしたが、未だ行方不明の方の遺留品はとてもきれいに洗い、新しく写真を撮り直してあるようです。

女川でもそのような写真はまだ見れるようですが、詳しいことを知りたかったら石巻へ、ということなのでしょうか。



母のときは歯の治療痕が決め手でしたが、数日遅れて母の姉弟や私のDNAが一致したと連絡がきました。

これは写真で母らしき人を確認していたので(実際母だったんですが)、その方に合わせて歯やDNAを調べてもらうことができ、早めに結果がわかったのだと思います。


なんと祖母の体も3月に見つかっていました。
なのに私たちが気づかなかった。

女川だけでも何百ものご遺体とその行方不明者家族のDNAをマッチングするんだから、そりゃ時間がかかるわけですね。

一緒に住んでいたはずの父が今回祖母の写真を見ても、はっきり本人だとはわからなかったそうです。



津波で命を落とした方は女川で約1000人。人口の約1割。
見つかった人は、行方不明者も合わせて539人。(8/11時点)
半分近くの人がまだ発見されていないことになります。

ここまできたらもう祖母は海の中で、二度と帰って来れないんだろうと思っていました。

でも8月になって発見されている方もいるし、うちのケースみたいに見逃してたってこともあります。


献血をしたことがある方でその血液がまだ保存されていれば、その血をDNA鑑定に用いることもできるそうです。
本人のDNAだから合致率は100%です。

母は通院していた歯科が残っていたし、祖母にはDNAを提供できる子ども(私のおじ・おば)が3人もいました。
不幸中の幸いだったと思います。


どうか、できるだけ多くの方がご家族の元に帰れますように・・・


2011年7月10日日曜日

チャリティマッチ Onagawa Cup

そうそう!
7月9日の今日は(もう昨日ですね)、イギリスNorthern League Unitedでチャリティマッチが行われました!
http://onagawasupporters.com/2011/07/08/the-countdown-to-northern-leagues-united-2/

その名もOnagawa Cup
ちゃんとトロフィーもあります。すごい笑。

ここでの収益は全額Birtleyという試合が開催された町と、女川のために使われます。

なんとこの試合、ロンドンにある日本大使館のHPでも宣伝されてるんです。
http://www.uk.emb-japan.go.jp/japanuk150/events/sports/Northern_Leagues_United.html
すごい笑笑。


女川にはコバルトーレ女川という地域密着型のサッカーチームがあるんですが、このチャリティマッチの立役者、Onagawa Supportersはコバルトーレを通じて女川を支援していこう、と立ち上がった団体です。
彼らはすごいです。
彼ら、って両者のことです。

コバルトーレやOnagawa Supportersに関しては書きたいことがいっぱいあるのですが、明日も早いので今日はこのへんで・・・
とりあえずリンク貼っておきます^^


コバルトーレ女川
http://www.cobaltore.com/

Onagawa Supporters
http://onagawasupporters.com/


ではおやすみなさい!

2011年7月9日土曜日

酢飯屋BBQ

おひさしぶりの更新です。

震災から3ヵ月とか
百箇日とか
父の日とか
onagawa.おさかなとか
福島に行ったこととか
外語大の東北支援隊のこととか
新聞に載ったこととか・・・

書きたいことはいっぱいあったんですが、またもやブログページを開かないまま時間だけが過ぎていってしまいました。
やっぱり思ったときにすぐ言葉にしないとだめですね!!



なんて言い訳はおいといて、今日の出来事を書きます。

このブログはtwitterやmixiでは伝えきれない、3.11関連の女川情報や自分のことを発信するために始めたもの。
なので個人的なことを書くのはどうかなとも思ったんですが、せっかく『ラベル』分けができるので、読者の方にはそちらを活用してもらうことにしましょう。。。



本題!

今日は築地川公園で行われた「酢飯屋BBQ」に参加してきました!
今回のテーマはずばり『宮城県』。

これは・・・行くっきゃないですね^^


懐かしの食材から知らない食材までいっぱいあって、
かまぼこ
地酒
津波に流された缶詰(ラベルがはがれているので中身は開けるまで謎!)
油麩の冷やし汁
くりこま高原・漢方豚の冷しゃぶ
金華サバ
塩釜・藻塩ロールケーキ
などなど。

気になることがあると1人でも飛び込んでいくのが自分のいいところだと思っているんですが(笑)、
今日もたくさんの方とお話しながらおいしいものを食べて楽しい時間を過ごせました。

中には石巻にボランティアに行かれた方もいて、自分が知らないようなお話を聞けたり・・・
なにより、地元の食べ物をおいしいと言ってもらえるのはやっぱりうれしい!

中でも一番印象に残ったのはごはんです。
ひさしぶりにおいしいごはん食べました。
さすがお寿司屋の酢飯屋さん、炊き方もお上手!!
(生意気なこと書いてすみません。でもどんなにおいしいお米でも、炊き方の相乗効果でもっともっとおいしくなると思うんです!)


あまったごはんをおにぎりにしてお持ち帰りさせていただいたんですが、冷たくなった今でもおいしいってすごいですよね。

3月に女川に帰ったときも、道中、仙台で友達がおにぎりを持たせてくれたり、女川で泊めてもらったお宅のおばあちゃんが東京に帰る日におにぎりを作ってくれたり。
日本人はいざってときおにぎりなんだなーと改めて思いました。
そしてもらうとなんだかうれしい。
人が握ってくれたものって、やっぱりあったかいんでしょうかね。


話がそれちゃいましたが、今日のごはんもすごくおいしかったです^^

そんな酢飯屋さんのHPはこちら
http://www.sumeshiya.com/

次はお店におじゃましたい!^^



帰り道では創業明治43年というパン屋さんを見つけました。

明治43年って・・・1910年?!
100年も続いているパン屋さん・・・
歴史を感じますね。

あんぱんが有名だそうなので、何種類か買って帰りました^^


創業明治○○年のうなぎ屋さんもあったり・・・
このあたりは老舗が多くて、歩いていると楽しいです。

築地市場もまだ行ったことないから行ってみたいなぁ。



こんな感じで、最近は元気にやってます。

次回は近いうちに更新したいな。

2011年5月15日日曜日

やっぱり母は母である、の巻

今日の日記は上手く書けるかわかりません。
乱文ですみません。





母が見つかりました。

正しく言うと、お母さんじゃないかと思っていた人が母本人だと判明しました。
根拠は歯型で、32本中31本合致したそうです。





昨日はおばあちゃんと、
今日は私と弟が幼いときという設定で夢に出てきてくれていました。

夢の中では幸せなのに、目が覚めて夢だとわかるとむなしいような悲しいような気持ちになって、とりあえず涙が出てきました。

今考えたら、学校も用事もない日に出てきてくれるなんてさすがお母さんです。
学校サボるなよ、遅刻すんなよ、ってことなのかも。

3月くらいの夢では、「今までどこにいたの?」という私の言葉に何も言わず、あいまいにごまかしていました。





お母さんについては今まで何度も記事を書こうと思っていたのですが、上手くまとまらなくて下書きを書いては消すことを繰り返していました。



今まで母と祖母は行方不明、とだけ言っていましたが、実は前回帰省した4/28にお母さんらしき人に対面しました。

他の人はちがうんじゃないかと言っていたけど、あんなにそっくりな人は見たことがありません。
そのときはかなり似ていると思ったのですが、はっきりお母さんだと断定できなかったことが
悔しくて申し訳なくて。
私の中のお母さんにも、対面したその方にも。


でもお母さんである可能性がある以上、絶対に会いたいと思っていたので。
そのとき会っておいて本当によかった。

それから毎日その顔を思い出していました。





お母さんが見つかった4/7は私の誕生日です。

いつもならしないけど、今年はケーキを食べる前に願い事をしました。
帰省時、女川の熊野神社を通りかかった時もお願いしました。


今思えば、
おにぎり大使でオーストラリアに行けたときも、
地元でなく仙台の高校を選んだ時も、
浪人をお願いした時も、
留学を許してもらったときも、

節目節目の大事なとき、母はいつだって私の味方で、私の希望を尊重してくれました。



叶った今だから言うけど、
今回の願い事は「お母さんにもう一度会いたい」です。

さすがうちのお母さんでした。
できすぎ君です。
さすが母です。


神がかり的なものはあんまり信じていないのですが、今回は運命を感じずにはいられません。
いや、母の力なのかな。
この24年間で一番強く願ったことが叶いました。



今は一人でこの気持ちをかみしめたいと思います。



次回のブログにまた詳しく書きます。